カバン・袋物・帆布加工一式 一澤信三郎帆布

一澤信三郎帆布の職人

第1回 現役最高齢の職人 × 中堅女性職人「ふたりとも好き嫌いがハッキリしているんです」
一澤 恒三郎

大正7年生まれ(94歳)。三代目・一澤信夫の弟。心臓脚気が原因で中学を中退、15歳から家業を手伝う。その後すぐに帆布のテント作りを学ぶため大阪に丁稚奉公へ。3年半の修行を終えて京都に戻り、テントやかばんを作っていたが、やがて戦争が始まって召集を受ける。無事に戦争から帰還した後は、様々な帆布の商品を作りながら、「現役最高齢の職人」と呼ばれる92歳まで仕事を続けた。現在は恒三郎の住まいが「東山工房」となっており、時おり職人たちの様子を見たり、おしゃべりに花を咲かせたりしている。

石田 さゆみ

1996年入社(17年目)。中学時代に一澤帆布のかばんに一目惚れ。就活中にたまたま一澤帆布の求人を見つけて応募するも、定員に達したという理由で不採用。その9ヵ月後に再度連絡をもらい、めでたく入社することになる。一澤信三郎帆布になった際には、自分も何か力になりたいとホームページの「スタッフメッセージ」の主担当になった。ちなみに現在販売されているビジネスバックは石田の考案。ショルダーをつけず手提げの形にしたのは、「スーツにショルダーをかけるのはかっこわるい」という彼女の美学である。

※ 現在販売されているビジネスバッグ(H-26H-27)

はじまりは牛乳屋さんの配達袋。

石田: おっちゃん、何歳からミシン踏んでるんやったっけ?
恒三郎: 14か、15か。今でいうたら中学3年生くらいからやな。中学2年のときに心臓脚気になって寝ついてしもうた。そのとき食べてたんは、「白蒸し」っていうて小豆を加えずに餅米だけを蒸したもので、お医者さんから「口の中でゆっくり、トロトロになるまでかんで食べなさい」と言われてた。ほんで、おかずは柚味噌。あとはな、寝間着を着たままで塩水に行水する。腰までつけるんや、毎日。それで歩けるようになって、外に出られたときの嬉しさといったら。学校辞めたことなんて全然気にならへんかった。
石田: えっ?学校辞めはったんですか?
恒三郎: そうや。学校なんて行かれへん。ずっと寝ついてたから。
石田: じゃあそっから仕事始めはったんですか?
恒三郎: いや、まだや。外に出られるようになってからは毎日歩く訓練をしたんや。時代祭を三条の白川橋の上から見たときはどんだけ嬉しかったか。それから家の仕事を手伝うようになったけど、このままじゃあかんいうことで大阪に奉公に出たわけや。
石田: 当時はお家で何を作ってはったんですか?
恒三郎: 製品写真親父は牛乳屋さんの配達袋を専門に作ってた。嵯峨、山科、伏見・・・牛乳屋さんのあるところにはほとんど売ってたんやで。もともとなんで牛乳屋さんの配達袋を作るようになったかというと、当時近くに住んでた若い牛乳屋さんが「配達するのにいい袋を作ってくれへんか」って相談に来たんがきっかけやった。それまではファイバー紙っていうボール紙よりも厚い紙でできた箱に牛乳をつめて、自転車の後ろにくくりつけて運んでたんやな。だからいっぺんにたくさん配達できひん。その若い牛乳屋さんはもっと遠いところまでたくさん運ぶために、親父に相談しに来はったわけや。そこで親父は実際に牛乳瓶を10本、20本、30本と並べて、それを紐でくくり円形をつくってかばんの原型をこしらえた。ほんで一番工夫したのは柄(持ち手)のところ。重いものを入れたら真っ先に柄が悪くなるさかい、すぐに取り替えられるようにロープにしたんや。かばんの口元に4つ穴を開けてハトメを打ち付け、そこにロープを結んで持てるようにした。これならロープが傷んだら、ロープだけ取り替えたらいい。「丈夫で配達も楽になる」と牛乳屋さんの間で大評判になって、もう京都中の牛乳屋さんがうちの配達袋を使ってたんやで。
石田: それはすごい!ちなみに京都以外ではどうやったんですか?
恒三郎: 東京か名古屋の牛乳屋さんがいっぺん買いに来はったけど、それ以来、広がらへんかったね。それと当時は牛乳の配達を自転車でしてたのは京都だけで、大阪なんかは車で配達してた。
この牛乳屋の話、長なるけどな。最初に配達袋を作ったときは高温殺菌の牛乳やった。瓶を熱して消毒してたから袋に入れたときにも温度があって、そのおかげで生地が柔らかくなって傷みにくかった。しかも牛乳の油が袋について、わりに長持ちしたんや。それが今度は低温殺菌になった。同時に、細くて背の高かった瓶のかたちが、太くて背の短い瓶に変わった。そこで親父はまた袋のサイズを変更し、底に防水の生地を張ることにしたんや。なんでかというと低温殺菌の牛乳を袋につめると水がついて、生地がすぐに腐ってしまうから。底を防水生地にしてからも、傷んで底だけ取り替えるっていうことがよくあった。ほんまはな、防水生地にせんと、生地が傷んだらまた買い替えてもらうほうが商売にはなる。でも親父は「腐った帆布を見たくない」と。白い帆布が黒くなるのを見るのがイヤやったんやな。
石田: そういえば、袋の底に穴も開けてたって言ってませんでした?
恒三郎: それは牛乳瓶が袋の中で割れてしまったときのため。自転車で配達してたらよく瓶が割れる。だから底に穴を開けておいて、そこから牛乳が出ていくようにしてたんや。
石田: へえ〜。いろいろ工夫してはったんですね。それでおっちゃんが家の仕事を手伝ってはったときは、配達袋を作ってたんですか?
恒三郎: まぁそうやな。あと注文聞きに行ったり、できあがった袋を届けたり。その時分、帆布でテントを作ってほしいっていう依頼もあった。でもそれはうちではできひんということで、いわゆる外注に出してたんやな。そうするとうちは注文を受けて外注に出すけど、全然儲からへん。それなら自分とこでできるようにしよういうことで、わしが大阪に丁稚奉公に出てテント作りを覚えてくることになった。

「キングコング」と「うな丼」の時代。

石田: 大阪には何年くらいいはったんですか?
恒三郎: 3年半くらいおったかな。またしても病気になるんや。大阪ではお茶の葉っぱを入れた茶粥を昼も晩も食べてたんやけど、そのうち夜に目が見えんようになってしもた。鳥目っていうんやな、日が暮れたら目が見えんようになる。そのせいで夜の配達のときになんべん土手から自転車で落ちかけたかわからへん。たぶん、食べものがあかんかったんやろうな。近所の屋台でうなぎを売ってるところがあって、そこでうなぎの肝を買って食べたらうそみたいに治る。でもまたいつ鳥目になるかわからへん。そんなこんなで結局、鳥目が原因で大阪の奉公を辞めたんや。でもそのときにはテントの仕事をほとんど覚えてたから、家に帰ってテント作りができるようになった。
石田: 大阪時代のこともよう覚えてはりますね。
恒三郎: そうやな。ちょうど奉公に出たときは、大阪の歌舞伎座ができた頃で。こけら落としの公演に入場料50銭払って、『キングコング』を観に行った。あれは日曜日の休みの日やったな。
石田: おっちゃん、映画好きやもんね。
恒三郎: そうや、好きや。大阪劇場っていう映画館があって、当時からよく通ってた。1回25銭やったね。
石田: 金銭価値がよくわからへんけど(笑)
恒三郎: うな丼も25銭。映画と同じ値段や。休みになって小遣いもらったら、道頓堀でうな丼を食べるのが楽しみやった。地下鉄は10銭。その後すぐに20銭になったけどね。それから歌舞伎座や松竹座のこけら落としは50銭。50銭は値打ちあったんやで。
恒三郎と石田

わしの人生、上出来。

新聞広告と恒三郎
石田: それで京都に戻ってからは、テント作り?
恒三郎: そうや、テントの仕事は全部わしが引き受けることになったんや。ただ時代が移るにつれて他の素材も出てきて、帆布のテントはどんどん少なくなっていったけどな。
石田: そもそも帆布って、船の帆のための生地ですよね。どうしておっちゃんのお父さんは帆布をかばんに使おうと思わはったんですかね?
恒三郎: 親父が勝手に考えて作ったんちゃうか。素材の丈夫さと、扱いのよさ、生地の硬さがちょうど合うんやろうな。
石田: 戦前は帆布の生地はどこで手に入れてきはったんやろね?
恒三郎: 最初はどこやったんかなぁ。確か、取引先で麻の問屋があってん。たまたまそこが帆布も扱ってて仕入れたんやったと違うかな。
わしも綿のことはいろいろ本で読んで勉強してきたんやで。帆布の素となる綿はどこで発達したかというと、インドや。それからアメリカ、北支(現在の中国の一部地域)。逆に、衣料用の上等な綿はエジプト産。エジプト綿は一つひとつの実が大きくてほわほわ。ほんで繊維が長い。インド綿、米綿、北支綿は、雑用に使う帆布なんかに向いてる。
石田: 日本では綿は作ってなかったんですか?
恒三郎: 日本でもできるのはできる。そやけど発達が遅い。気候が合わへんのやな。だから今でもだいたい綿の原料は輸入して、紡績は日本でやってる。
石田: でも戦時中には帆布の生地も手に入らなかったんですよね?
恒三郎: 一般の帆布は手に入らなんだ。それで普通の商品が作れなくなった代わりに、うちでは軍用の道具入れや袋ものを作るようになった。知り合いの大将が、帆布の上に特殊な塗料をぬった防水・防寒用の生地を作ったので、それを使って機関銃のカバーなんかを手がけてた。寒い地域では、機関銃をいざ撃とうと思ってもガチガチに凍って動かんようになる。鉄の塊やから。そこでカバーの裏側にポケットをつけてハクキンカイロを入れ、保温できるカバーを作った。それと同じ生地を使って、車のエンジンカバーも作ったな。あとは軍需工場から注文を受けて、ドライバー、ペンチ、ハンマーなどの修理道具を一つにまとめる袋も考案した。
道具巻きと恒三郎
石田: えっ!じゃあ今、一澤で作っている道具巻きってそのときにできたんですか?
恒三郎: そうや、それがヒントになって生まれたものや。道具巻き自体は、三条通りの大工道具屋さんが学校で販売するための大工道具セットを作りたいということで生まれたんやけど、その大元になってるんは戦時中の道具入れや。
石田: ほんとに長い間、時代が変わって、作るモノが変わっても、ずっと帆布の商品を作ってるんですね。
恒三郎: 牛乳屋さんの配達袋からいろんなモノに派生してきたんやね。
石田: おっちゃんは15歳からずっと職人を続けてきはりましたけど、仕事を変えようと思ったことはないんですか?
恒三郎: ないな。この仕事は面白いもん。工夫したらなんぼでも可能性が広がる。今うちが作って売ってるもの以外にも、考えたらなんぼでもアイデアがあるはずや。今までだってずっと工夫していろんなものを作ってきたんやから。
石田: おっちゃんにとって職人は天職なんやね。
恒三郎: わたしの一生は恵まれてますねん。悪いことがほとんどない。ええほう、ええほうへと向いてる。
ほんまに人生、上出来やな。

恒三郎との対談を終えて・・・

石田
Q: 専務(恒三郎のこと)と仕事されていたときの様子を聞かせてください。
石田: 一緒に仕事するのは楽しかったです。仕事中も時々、対談で出てきたような昔話をされるんです。普通の職人は仕事しながら絶対おしゃべりなんてできないですよ、集中力を欠いて木槌で手を叩いてしまいますから。でも専務の場合は、もう身体に動きが染みこんでいるんでしょうね。それとやっぱりおしゃべり好きだから。お家にお邪魔させてもらったときに4時間くらい話したこともあるくらい(笑)。
ただ、よく叱られもしましたよ。私が入社した頃は専務もまだ今より若かったですし、今よりこわかった。木槌を叩いていたら、よく「音が悪い」「リズムがおかしい」って怒られました。確かに私も慣れてきたら微妙な音の変化に気づけるようになりました。木槌の面がまっすぐ入ると、均等にピシッと仕上がる。それが木槌の端で叩いているとピッシリいかないんですね。それと「もったいないから無駄なことをするな」ともよく言われました。例えば、糸はできるだけ短く切らないといけない。無駄に糸をたらしていると、「糸で一澤をつぶす気かー!」って。当時はすごく厳しい人でした。
Q: 石田にとって専務はどんな存在?
石田: 師匠ですね、すべてにおいて。尊敬とも違う。もちろん仕事面では尊敬しているんですけど、ほんとに好きなおじいちゃんですね。あ!おじいちゃんって言ったらあかん(笑)。ほんとに好きな人です。血もつながってなくて、これくらいの距離だから好きと言えるのかもしれないですけど。
Q: 対談で印象的だったのは?
石田: 「他の仕事をしようと思ったことはないんですか?」って聞いたときに、「この仕事が一番ええ」って。「工夫ができるから楽しい」って。あれ、私すごく衝撃でしたね。私もこの仕事を同じように思っていますけど、専務は15歳からやっていてずっとイヤになることなく続けてきたんやって、いい意味でショックを受けました。「わしの人生は上出来」ってなかなか言えないですよね。あの言葉に人生が集約されてるなって、久しぶりにハッとなりました。

編集後記

ふたりの対談は、おっちゃんの自宅がある「東山工房」で行いました。トントン、カタカタ、職人たちが鳴らす木槌とミシンの音に包まれながら、おっちゃんは上機嫌。94歳とは思えない軽快なトークを繰り広げてくれました。話は、あっちこっちに時空を超えながら、なんとノンストップで3時間。おっちゃんの体調を気にして、お開きとなりましたが、「これから戦争と恋愛の話やったのに、、」とそれでもまだまだ話し足りないふたりでした。「人生、上出来」と言える師匠!私たちも師匠に少しでも近づけるように、日々努力していきます。